聖書のお話 2025.04.06
【聖書箇所】ルカの福音書22:31~34
【説 教 題】ペテロ否認の予告
【中心聖句】しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカの福音書22:32)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】394成し給え汝が旨
誰でも、多かれ少なかれ、何らかの失敗をしているものですが、そんなとき私たちはどんな気持ちになるでしょうか。ある人は、とても惨めな気持ちになるかもしれません。ある人は、自暴自棄になって、すべてを投げ出したい気持ちにさえなるかもしれません。
実は、聖書の中に登場してくるイエスさまの弟子たちを調べてみると、彼らの失敗の記事がところどころにでてきます。どうやら、彼らも私たちと同じで、多かれ少なかれ何らかの失敗をしていたようです。中でも、イスカリオテのユダの裏切り行為はその最たるものでした。何と言っても、銀貨30枚でイエスさまを裏切ったわけですから…。しかしそんなユダに対してさえ、悔い改めと信仰を回復させるチャンスがあったことを、私たちはイエスさまのおことばや態度の中から知ることができます。でも、イエスさまから心離れてしまったユダには、残念ながらそんなイエスさまの愛が届きませんでした。そのため、彼は自暴自棄になって、自分の人生に終止符を打つという悲しい結末を迎えることになってしまったのです。
では、今回取り上げようとしているペテロの場合はどうだったのでしょうか。ご承知のとおり、彼は自信過剰で、何回も何回も失敗を繰り返してきたことを私たちは知っています。しかし、ユダとの決定的な違いは何かといえば、ペテロの場合、彼からはイエスさまへの信仰が失われていなかったということが言えると思うのです。もしかすると、そのときの彼の信仰はからし種ほどの小さなものだったかもしれません。けれども、たとえ小さかろうが、生きて働く信仰が彼の内にあったことを私たちは知るのです。
そこで、今回はペテロの失敗と、そんな彼に注がれていたイエスさまの愛に目を留めていきたいのですが、まずは31節と32節をご覧ください。この場面は、最後の晩餐での出来事であり、イエスさまはここで次の3つのことをペテロに予告なさいました。まず1つめですが、それは「サタンのふるいにかけられる」という予告であり、イエスさまを3度否認するという内容のものでした。ご承知のとおり、ふるいにかけられるとは、信仰が揺さぶられること、またふり落とされることでもあるわけですが、このことはペテロを堕落させようとするサタンの試みを意味しています。一方、この予告に対してのペテロの反応ですが、彼は自信ありげにこれを否定し、「イエスさまのためなら、投獄も死もいとわない」と豪語しました。
そのため、イエスさまは34節のところで、彼にこう言われました。「ペテロ、あなたに言っておきます。今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」と…。ご承知のとおり、私たちはこの後、イエスさまが捕らえられ、大祭司のもとに連行されていくと、イエスさまのおことばのとおりに、イエスさまを3度否認したペテロの姿と鶏に鳴かれてハッとしたペテロの姿、そして遠くでイエスさまに目が合ってしまうと悲しい思いをしたペテロの姿を、私たちはみることになります。
続いて2つめの予告ですが、「それでもペテロの信仰はなくならない」というものでした。では、サタンに打ちのめされ、生涯で最も惨めな体験をすることになったペテロの信仰がなくならなかったのは何故なのかというと、それは彼の気づきにあったのではないでしょうか。つまり、「知らない」「関係ない」と言ってはイエスさまを裏切ってしまった自分に対してさえ、イエスさまは「ペテロの信仰がなくならないように」と、愛をもってとりなしの祈りをしてくださっていたという気づきです。そうです。ペテロはサタンに打ちのめされていましたが、イエスさまの愛、イエスさまのとりなしの祈りが、彼に信仰の回復を与え、信仰の勝利を与えてくださったのです。
なお、3つめの予告ですが、それは、「ペテロは立ち直れる、だから兄弟を力づけよ」というようなものでした。つまり、あなたはあなたと同じように挫折した仲間を励ますことができるということではないでしょうか。
ところで、これは私たちの場合ですが…。悩んでいる人がいると、ついその人を励まそうとして、「私も若い頃、そんなことがあって、とても苦労したもんだ」とか、「人間誰だって失敗や挫折を繰り返しながら成長していくもんだ」とか、「俺なんか君よりもっと大変だったんだぞ」とか言う場合があります。またときに、聞いている方が疲れてしまうほどに、得意げに延々としゃべり続けられてしまうというようなことがあるかもしれません。
もちろん、このような話の中にはときとして味わい深く、またなるほどと思えるような示唆に富んだものもあって、それこそ励まされる場合が確かにあります。けれども、聞き手の心の状態にもよるかもしれませんが、聞いた後、なぜか心の深いところに癒されない感じが残るということはないでしょうか。厳しい人生を生きていく上での教訓や参考にはなり得ても、何か心の外というか、どうも心の奥の扉はなかなか開かない感じがするわけです。
そしてそれはなぜなのかというと、誰もがそうだとは思いませんが、その1つの理由を挙げるとすれば、たぶん教訓として失敗談を語ることのできる人の多くは、すでにそれを克服しており、失敗を語りつつも、いつのまにか無意識のうちに勝利者のような態度で話してしまうことが多い…。つまり、それは失敗談というよりは成功談と言ってもいいかもしれません。一方、聞かされている側としては、「あなたはうまく乗り越えられて本当によかった。でも、私は…」という感じになってしまうわけです。つまりこのような成功者と失敗者というような構図や雰囲気の中では人の心はなかなか癒されないのではないでしょうか。
では、人生途上において様々な失敗や挫折を通して学んできた貴重とも思える気づきや体験などを、同じような苦しみの中にある人にどのようにお伝えしたらよいのかというと、たとえばその失敗談が相手のためになると、そのように思われる場合であっても、ごく控え目に、ごくごく控え目に語られるのがよいのかもしれません。と言うのも、悩んでいる人の心の扉はどうやら親身になって聞いてくれる人、寄り添って聞き続けてくれる人によって開かれてくるように思うからです。
というわけで、今回は生涯で最も惨めな体験をしたペテロについて取り上げました。また、もう一方においては、そんなペテロのために前もって祈ってくださっていたイエスさまの愛についても取り上げました。願わくは、ペテロのみならず、あなたや私のためにも、イエスさまは「信仰がなくならないように」と祈ってくださっている主であることを覚えたいと思うのです。また、「あなたは必ずや立ち直れる」「立ち直ったら、同じように挫折した仲間を励ますように」と仰せくださっているイエスさまのおことばにも心をとめながら、あなたや私にも注がれているイエスさまの愛を見失わないようにしていきたいと思うのです。
【恵みの分かち合い】
1.イエスさまのペテロへの3つの予告とは、何でしたか。
2.人を励ますということについて、自由に分かち合ってみましょう。