聖書のお話 2026.10.18
【聖書箇所】創世記25:19~34
【説 教 題】エサウとヤコブ
【中心聖句】エサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。
(ヘブル12:16)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】372聖なる者と
アブラハムに与えられた信仰と神の祝福についてですが…。聖書によると、それらのものは子々孫々にまで伝えられていくというものでした。しかし、アブラハムにとってその道を信じ従っていくということは、決して平坦ではありませんでした。山があり、谷があり、ときに泥沼やでこぼこ道が彼を悩ませたのです。しかも、ご承知のとおり彼にとっては悲しみとイライラの入り混じった苦悩の道からのスタートでもあったのです。しかし、彼が百歳になってようやくのこと、約束の子イサクが与えられましたから、彼の悲しみの涙は苦しんだ分だけ喜びの涙へと変えられたに違いありません。
なお、アブラハムに与えられた信仰と神の祝福は、こうして息子イサクへと受け継がれていくことになったわけですが…。調べによると、イサクが成長し、リベカと結婚したのは、彼が40歳のときでした。ところが、イザクとリベカとの間には、20年経っても、子どもがありませんでした。つまり、アブラハムからイサクへと受け継がれてきた信仰と神の祝福を受けるべく後継者の問題が、彼らの代で絶たれようとしていたのです。ともかくも、このことでの彼らの悩み、またどん底での彼らの神への祈りがどれほどのものであったか、私たちには想像もつきません。
ところが、神の約束の確かさを知らされるときがやがてイサクにもやってきました。彼が60歳のとき、待望の赤ちゃんが与えられたのです。時が満ち、出産のときがやってくると、妻リベカはふたごの兄弟を産んだのです。ひとりめは赤くて、ひどく毛深かい赤ちゃんでした。ふたりめは、何と、そのすぐあとから兄のかかとをつかんで出てきたというのです。そのため最初の子は「毛深い(または赤い)」という意味のエサウ、次の子は「かかと(または押しのける)」という意味のヤコブという名前になりました。調べによると、当時は、このようにして見たときの様子や印象がそのままその子の名前になることがあったようです。
さて、やがてこのふたりが成長すると、兄のエサウは獲物を捕る狩人となり、弟のヤコブはヒツジを飼う羊飼いとなりました。しかも、ふたごではありましても、彼らの性格は同じではありませんでした。たとえば、父親に愛されたエサウは単純で活動的というか、自分の腕力で生きていくタイプの人間でした。一方、母親に愛されたヤコブは穏やかで理知的というか、エサウが腕力なら自分は知恵で生きていくというタイプの人間になっていきました。いずれにせよ、両親は、それぞれがそれぞれに好んだ性格の息子を偏愛したというか、両親の偏った愛情が微妙に子どもたちの人格形成に影響を与えたであろうことは否めません。
そこで確認のため、創世記25:28を読んでみましょう。すると、族長イサクの家庭がどんなであったか。すなわち、問題のない家庭であったか、それとも問題のある家庭であったかがわかってきます。こう書いてあるからです。「イサクはエサウを愛していた。猟の獲物を好んでいたからである。しかし、リベカはヤコブを愛していた」と。要するに、父親のイサクですが、彼は次男ヤコブよりも長男エサウを愛していました。というのも、イサクは肉が好物で、エサウがその獲物をよくしとめてきてくれていたので、父イサクにとってはエサウが大のお気に入りだったのです。一方、母親のリベカですが、彼女は長男エサウよりも次男ヤコブを愛していました。しかも、その溺愛ぶりといったらそれ相当なものでした。というのも、27章において母リベカはエサウのための祝福をヤコブのために横取りするという、言わば祝福横取り作戦を計画するのですが、その際、彼女は「その計画の一切の責任は自分がとる」とか、「そのためになら自分がのろわれてもかまわない」とまで愛するヤコブに言っているからです。
というわけで、私たちはここに「親の偏愛」や「親の溺愛」、そしてその結果としての「甘やかされて育った子ども」という構図をみることになるのです。
ともかくも、ふたごの兄弟とはいえ、兄のエサウには霊的なことに対して幾分か無頓着なところがありました。一方、弟のヤコブですが、彼には自分勝手というか、ほしいものがあればどんな手段を使ってでも手に入れようとするずる賢さがありました。たとえば、29節以降に、その一例が取り上げられているわけですが…。ご承知のとおり、ヤコブは前々から兄の長子の権利を何とか手に入れたいと、そのチャンスをうかがっていました。そんなある日のことです。エサウが獲物も捕れず空腹で死にそうになって帰宅してきたものですから、チャンス到来と考えたヤコブは、ここぞとばかりにエサウの弱みに付け込んでいくのです。すなわち、長子の権利をレンズ豆の煮物と交換しようと言ってきたわけです。すると、霊的なことににぶく、また目先の快楽のみを求める近視眼的な生き方をしていたエサウは、迷うことなくレンズ豆の煮物を選んでしまったのです。
なお、長子の権利というものには、財産分与という目に見える特権もありましたが、アブラハムに与えられた神の約束を受け継ぐという霊的な特権もありました。言うなれば、エサウは本当に大切なものを軽々しく考え、目先のものだけに心がいってしまっていたわけです。しかも、目先のものだけを追い求める「この世的」「肉的」生き方をしていては、神の祝福につながってはいかないのです。そのようなわけで、神の霊的祝福を軽んじ、目先の快楽のみを求める近視眼的な生き方をしていたエサウのようにではなく、むしろ神の霊的祝福がどんなにすばらしく、また価値あるものであるのかを本当の意味でわからせていただきつつ、いよいよ神の子どもとされた特権でもある罪の赦しや永遠のいのち、また神への礼拝…、このようなものがこの地上にあるいかなるものとも交換できるものではないことを明確に自覚していくお互いでありたいと思うのです。
【恵みの分かち合い】
あなたの名前の由来は何ですか。
イサクの家庭にはどのような問題があったと思われますか。