聖書のお話 2025.10.19
【聖書箇所】サムエル記 第一 1:1~20
【説 教 題】ハンナの祈り
【中心聖句】私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、
私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。
(Ⅰヨハネ5:15)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】349移りゆく時の間も
今回は、旧約聖書の中に登場してくるハンナという女性の祈りを通して、「神のなさることはすべてが最善であるとの確信を得るまで心を注ぎ出して祈り抜くということの大切さ」をごいっしょに学んでいきます。
さっそくですが、昔、イスラエルにまだ王がいなかった時代のことです。エルカナという人にふたりの妻がいました。第一夫人の名は今回の主人公であるハンナ、第二夫人の名はペニンナです。実は、この時代、一夫多妻という夫婦のあり方はイスラエルのみならず近隣諸国においても一般的に認められていることでした。といっても、聖書がそれを支持しているということではありません。一夫多妻の記事が聖書にあるからといって、聖書がそれを支持しているということでは決してないのです。むしろ、「ふたりは一体となる」という大切な夫婦の教えが創世記にあるように、結婚へと導かれた場合、ひとりの夫に対してひとりの妻という関係にあることこそが、神によって創造された人間の本来のあるべき姿であり、それを堅持してこそ神の豊かな祝福へとつながっていくのです。
ところが、人間とは何と罪深く、罪の影響力は何と恐ろしいことでしょう。人の心の中にある罪は、神によって創造された人間のあるべき姿をゆがめていき、神と人との関係、また人と人との関係をもゆがめていくのです。たとえば、ゆがめられた夫婦の関係を聖書の中から挙げてみると、創世記4:19では人間の罪と堕落の結果として、早くにも「レメクは二人の妻を迎えた」とあります。第一歴代誌3章では、あのダビデ王でさえ複数の妻をめとっていたことがわかります。また、ソロモン王に至っては、何と「七百人の王妃としての妻と、三百人の側女がいた」との記録が第一列王記11:3に残っています。ともかくも、エルカナの時代も同じで、彼はハンナとペニンナというふたりの妻をめとっていたのです。
では、エルカナはどういった理由からふたりの妻をめとることになったのでしょうか。残念ながら、聖書にその理由がはっきり記されているわけではありません。ですから断定はできませんが、恐らく、最初の妻ハンナとの間に子どもがなかったということが大きな要因だったのではないでしょうか。というのも、当時、子どもは神の祝福と考えられていました。ですから反対に、子どもがいない、子どもが与えられていないとなれば、それは神の祝福を失っているということであり、社会的には恥ずべきことであると考えられてしまっていたのです。そのため、これは精神的な面からの推測になりますが、エルカナはたぶんそういった周囲の人々からの目に絶えられなかったのかもしれません。また、自分の後継ぎということを考えると、ハンナには申し訳ないと思いつつも、どうしても第二夫人を必要とする決断をしなければならなかったのではないかと思うのです。
ともかくも、エルカナはこうしてもうひとりの妻ペニンナをめとることにしたのです。けれども、ひとりの夫に対してひとりの妻という聖書の原則から外れてしまうと、やがてそこにはやっかいな問題が起こってきました。どんな問題でしょうか。実は、ペニンナとの間に子どもたちが与えられると、第二夫人である彼女は第一夫人であるハンナを見下し、一方、子どものいないハンナは、そのことで大変つらい思いをするわけです。特に7節を見ると「ハンナは泣いて、食事をしようともしなかった」とあるように、彼女はそれほどまでに苦しむようになっていったのです。そして、そんな彼女でしたから、「私は神さまから見離されてしまったのではないか」、「後継ぎが得られなくて夫に申し訳ない」、「ペニンナの高慢な態度に私はもうこれ以上たえられない」…、そんな思いにかられていたかもしれません。
いずれにせよ、第二夫人であるペニンナはますます高慢になっていき、その心はますます神から離れていくようになりました。一方、悲しみの中にあったハンナはどうであったかというと、実に、彼女が行き着いたところは神への祈りでした。といっても、彼女の祈りは、最初、自分の悩みを洗いざらい出しきってすっきりさせたいという思いが大変に強いものでした。すっきりできれば自分はもうそれで充分というか、彼女は祈りをそのようにとらえていたのです。しかし、祈り求めていくうちに、ある時点からハッとしたというか、信仰の気づきが与えられたというか、肉的でしかない自分の求めが吟味され、彼女の祈りが変えられていったのです。具体的には、「私の思い、私の願い」ではなく「神の思い、神の願い」はどうなのかを探られたでしょうし、あるいは「子どもがいれば幸せ」という考えが主流になっている中で、「たとえ子どもがいなくても幸せ」という道があることを祈りの中で探られていったに違いないのです。
そして18節に至っては、彼女の「その顔は、もはや以前のようではなかった」と聖書に描かれていることに注目していただきたいのです。実は、これこそが「神のなさることはすべてが最善であるとの確信を得るまで心を注ぎ出して祈り抜いた者の姿である」といっても良いと思うのです。しかも、こうして心を注ぎ出して祈り抜いたハンナには魂の平安が与えられました。そして、その平安は神のなさることはすべてが最善であるとの確信を得た者にのみ与えられる神からの平安だったのではないでしょうか。
というわけで、慣れや惰性で祈ってしまう祈りやお願い一辺倒の祈りになりやすい私たちではありますが…。願わくは、今回のハンナの祈りを通して、神のなさることはすべてが最善であるとの確信を得るまで心を注ぎ出して祈り抜く、そんな祈りの経験…、もしくは失望しないで祈り続けるという、そんな祈りの経験…、あるいはお願いだけの祈りではなく、賛美・感謝・悔い改め・とりなしなどをささげることのできる、そんな豊かな祈りへと導かれていくお互いでありたいと思うのです。
【感謝の分かち合い】
1.ハンナは何に悩み、苦しみましたか。
2.ハンナの祈りから、どんなことを学び取ることができますか。