聖書のお話 2026.06.07

【聖書個所】マタイの福音書 3:1~6、13~17

【説 教 題】イエスのバプテスマ

【中心聖句】そして、見よ、天から声があり、こう告げた。「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)

【説 教 者】黒田 明

【新 聖 歌】43 わが君イエスよ

 

 今回のところには、バプテスマのヨハネから洗礼をお受けなさったイエスさまのことが取り上げられています。ご承知のとおり、この出来事は「イエスさま公生涯のスタート」とも言われています。では、このときイエスさまは何歳くらいだったのでしょうか。残念ながら、マタイの福音書からはそれを知ることができません。しかしルカの福音書3:23によると、受洗後、教えを始められたときの年齢が「およそ30歳」とありますから、イエスさま公生涯のスタートは「およそ30歳」と、そのように理解してよいのではないでしょうか。

 なお、マタイの福音書の著者マタイは、今回のところで、救い主イエスさまを登場させるにあたって、その前にバプテスマのヨハネを取り上げています。そこでこの説教の前半では、バプテスマのヨハネについて取り上げてみたいと思います。たとえば、4節をご覧ください。著者マタイは、わざわざここでヨハネの風貌を取り上げ、その姿を次のように表現しています。「らくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め」と…。実に、変わった風貌です。しかし、お気づきになられた方もおられるかと思いますが、その服装が旧約時代の預言者エリヤのそれとよく似ているのです(Ⅱ列王1:8)。

はたして、彼はそのエリヤと何か関係があるのでしょうか。確かに、旧約聖書のマラキ書によると、終末におけるエリヤの再来、つまり世の終わりにあってはエリヤのような預言者が再び現われると聖書は預言しています(マラキ4:5)。たぶん、そういうことからでしょう。バプテスマのヨハネは人々から「あなたはそのエリヤなのですか」と尋ねられたりもしました。しかし、彼の返答は「いいえ」でした(ヨハネ1:21)。ということは、彼は再来のエリヤではなかったのかというと、イエスさまご自身が後に「このヨハネこそ、まさしく再来のエリヤだ」(マタイ17:12)と告げていることからすると、恐らく、バプテスマのヨハネが再来のエリヤであることを否定したのは、彼がごくごく控えめであったということでしょう。もしかすると、当時、当の本人にもその自覚がなかったのかもしれません。

 いずれにせよ、預言者エリヤの主たる働きとは何だったでしょうか。そうです。イスラエルの民を偶像礼拝から真の神に立ち返らせるということでした。そしてそれは、バプテスマのヨハネも同じでした。彼は、王の王・主の主でいらっしゃるイエスさまをお迎えするにあたって、平らで、まっすぐな、通りやすい道をあらかじめ備えるがごとくに、そのようにして民の心を神へと立ち返らせたのです。こう言っているからです。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(ヨハネ3:2)と…。

 さて、こういうことですから、このようなヨハネの呼びかけに応じて、たくさんの人々がヨルダン川で彼から洗礼を受けました。ところが、中には素直に応じない人々もいました。7節に「パリサイ人やサドカイ人」とあるように、彼らは人々を教える指導的な立場にあったものですから、人間的なプライドや偏見が邪魔をしたのでしょう、素直に悔い改めることができず、自らの意志をもってそれを拒否してしまったのです。

 一方、イエスさまはというと、パリサイ人やサドカイ人のようにではなく、自ら進んでこのヨハネから洗礼を受けようとなさいました。なぜでしょうか。罪ある者が悔い改めて神に立ち返る…、そのための洗礼であるなら、罪のないイエスさま、父なる神との親しい交わりの中にあるイエスさまがその洗礼を受ける必要などありません。では、イエスさまはなにゆえに、そこまでして洗礼を受けようとされたのでしょうか。

 その答えとなるヒントが15節にあります。これはイエスさまのおことばですが、イエスさまは次のように言われたのです。「今はそうさせてほしい。このようにして正しいことをすべて実現することが、わたしたちにはふさわしいのです」と…。要するに、イエスさまが自ら進んで、このヨハネから洗礼を受けようとなさったのは、ご自身に罪があったからということではなくして、むしろ罪ある人間と同じ立場に立ち、人と同じようになることが父なる神のみこころであることを知っておられたイエスさまであられたがゆえに、罪を犯すということは別として、人としての正しいことはすべて、それを実行しよう…。そして、人としての正しいことの1つが「洗礼」であり、イエスさまはこうしてバプテスマのヨハネから洗礼をお受けになられたというわけです。

 ということは、どういうことが言えるでしょうか。洗礼は受けてもいいし、受けなくてもいい、そのどちらでもいいというような類いのものではありませんで、洗礼は受けるべきもの、ぜひ受けていただきたい、そのようなものであり、そしてそれはなぜかといえば、何よりもイエスさまご自身が私たちのために、そのよきお手本を示されたからです。私たちは今回、このことを覚えておきたいと思うのです。そして、主を信じ、主にお従いしていきたいと願いつつも、まだ洗礼を受けていらっしゃらないという方がもしいらっしゃるなら、ぜひちょうどよいときに、すなわち自らの考えで早めてしまうのもどうかと思いますが、さりとて自らの考えで遅らせてしまうということもどうかと思いますので、神さまが示してくださるちょうどよいときに洗礼をお受けなさるとよいのではないでしょうか。

 最後になりますが、17節にある父なる神のことばから、イエスさまがどのようなお方であられるのかを取り上げてみたいと思います。そこでまずは、「これはわたしの愛する子」という部分ですが、ある注解書(『新聖書講解シリーズ・マタイの福音書』)によると、これは詩篇2:7に基づいたことばであり、この詩篇のことばは「輝かしい王としてのメシヤ」と深く関係しているというのです。

一方、「わたしはこれを喜ぶ」という部分ですが、これはイザヤ書42:1に基づいたことばであり、これは「苦難のしもべとしてのメシヤ」と深く関係しているというのです。つまり、メシヤには王であられるという輝かしい側面と、しかしながらこの地上にあってはしもべとしての苦しみを味わわなくてはならないというもう1つの側面があって、まさしくそのような意味において、このメシヤ預言はイエスさまにおいて成就したということを、私たちは知ることができるのです。いずれにせよ、王の王、主の主であられるイエスさまが、この私たちの罪のために人となってこの地上に来てくださり、十字架という苦しみを味わってくださった…。私たちは、このイエスさまのへりくだりを覚えて、ますますこのお方にあって謙遜にされていくお互いでありたいと思うのです。そして今は天におられるイエスさまでありますが、今度はすべての悪を打ち滅ぼし、神の民をご自身の王国へ迎え入れるためにこの地上に再臨すると約束しておられるわけですから、私たちはその日を待ち望みながら前へ前へと進んでいくお互いであらせていただきたいと思うのです。

 

【恵みの分かち合い】

1.あなたがバプテスマを受けようと思った理由は何ですか。

2.バプテスマを受ける唯一の条件は何だと思いますか。

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