聖書のお話 2026.09.06
【聖書箇所】創世記4:1~9
【説 教 題】カインとアベル
【中心聖句】人には自分の歩みがみなまっすぐに見える。しかし、【主】は人の心を評価される。(箴言21:2)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】251主イエスの御側に
昔、こんな事件がありました。姉が妹を包丁でめった刺しにして殺すという事件です。しかも、はじめの報道では「妹は部屋に侵入してきた男性によって殺害された」と、姉は証言していました。つまり、彼女はウソをついていたのです。しかし、事の重大さに気づいたのでしょう。まもなく彼女は自分がやったことを自供しました。そこで殺人の動機が明らかになったわけですが、彼女によると、明るい性格の妹がとても妬ましかったというのです。何ともやるせない事件ではないでしょうか。
また、こんな事件もありました。弟が酒に酔った兄を生き埋めにして殺すという事件です。しかも、その殺人の動機は「酒に酔って暴れまくる兄が憎らしかったからだ」というのです。兄が憎らしいからといって、生き埋めにして殺すとは何ともむごたらしい事件ではないでしょうか。
さて、聖書を開きましょう。今回のところには、人類最初の殺人事件となった記事が取り上げられています。ご承知のとおり、罪のためにエデンの園を追われてしまった最初の人アダムとその妻エバとの間に、やがてふたりの男の子が与えられました。ひとりの名はカイン、もうひとりの名はアベルと言うのですが、やがて彼らが成長すると、兄のカインは土を耕す者に、一方、弟のアベルは羊を飼う者になっていきました。
ところで、3節と4節をご覧ください。ふたりはここで、各々、その職業にふさわしい収穫感謝のささげ物を神さまにささげました。何をささげたかというと、兄のカインは農耕をしていたので地の作物を神さまにささげました。一方、弟のアベルはというと、彼は牧畜をしていましたから彼の羊を神さまにささげたわけです。しかし、どうしたというのでしょう。神さまは弟アベルのささげ物には目を留められましたが、兄カインのささげ物には目を留められなかったというのです。
はたして、この場合カインの何が問題だったのでしょうか。ささげ物の種類が問題だったのでしょうか。いいえ、そうではありません。むしろ、4節と5節のところで、「アベルとそのささげ物」「カインとそのささげ物」と言われているように、神さまはささげ物に目を留められるよりも以前に、ささげている人自身に関心をお持ちでいらっしゃったのです。
そのようなことを踏まえながら、もう1度、3節と4節を注意深く読んでいただきたいのですが…。そうすると、カインのささげ方が極めて事務的であったのに対して、アベルの方は心からのささげ物であり、また信仰からくるささげ物であったことがおわかりいただけるのではないでしょうか。すなわち、カインの方は「大地の実りを【主】へのささげ物として持って来た」とだけしか記されていないのに対して、アベルの方は「自分の羊の初子の中から、肥えたものを持って来た。(新改訳第三版:彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。)」と、このように記されているからです。要するに、神さまがご覧になられたのは、何をどれくらいささげたかではなく、むしろその人がどんな心で、あるいはどんな態度でささげたかということだったことがわかるのです。
さて、5節の後半と6節をご覧ください。ここには、カインの心に湧き上がってきた怒りや憤りについてが取り上げられています。なお、新約聖書エペソ人への手紙4:26~27では、「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」とあるのですが…。何とも悲しい現実として、カインは怒りや憤りといった感情をすみやかに処理することができないでいたのです。そればかりではありません。このとき彼は、神さまからの語りかけを耳にしていたにもかかわらず、その御声に耳を傾けず、かえって人の弱さにつけ込んできたサタンの声に引きつけられていき、ついには弟のアベルを野に連れ出しては不意を突き、彼を殺してしまったのです。しかも9節に至っては、悔い改めのチャンスが神さまから与えられていたにもかかわらず、せっかくのチャンスを彼は拒否してしまうのです。さらに残念なことには、「俺は弟の番人なんかじゃない」と言っては、駄々っ子のようにふてくされてしまうのです。
さあ、そこで私たちも考えてみたいのですが、罪を犯してしまったカインにとって大切なことは、いったい何だったでしょうか。思うに、それは神さまの前に正直に出るということだったのではないでしょうか。「しまった」…、「見破られたか」…、「実は、そのー」…、そういった逃げ腰の態度でなく、「神さま。ごめんなさい。どうぞお赦しください」と心からおわびする潔い態度で神さまの前に出ることが大事だったように思うのです。要するに、ウソをつくのでもなく、いいわけをするのでもなく、またふてくされてしまうのでもなく、正直に神さまの前に出て、「神さま。私がやりました。どうぞお赦しください」を言えるかどうかが、カインだけでなく、このことは私たちのこれからの信仰生活にとっても大きな分かれ目になってくると思うのです。
というわけで、私たちは今回カインから次の2つのことを学びました。第1に、極めて事務的な信仰を神さまはお喜びにならないということ。第2に、心からの悔い改めがない信仰ほど、神さまから遠いものはないということです。今回は、こういったことを心に留めながら、「喜びや感謝をもって主を礼拝する信仰」、さらには「悔い改めに導かれやすい素直な信仰」を自分のものとしていきたいと思うのです。実に、神さまは、金の器でもなければ、銀の器でもなく、へりくだった、きよめられた器を用いて、ご自身のみわざを進めていかれるのです。
【恵みの分かち合い】
私たちが神の前に正しく歩むために、カインから学ぶことができるのはどんなことですか。
あなたのきょうの祈りは、どのようなものになりますか。お互いに分かち合ってみましょう。