聖書のお話 2026.03.08

【聖書箇所】ヨハネの福音書13:1~15

【説 教 題】神と人とに仕える

【中心聖句】しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。

(マルコ10:43)

【説 教 者】黒田 明

【新 聖 歌】404

 

 日本でも海外でも、またいつの時代でも、権力者は命令1つで人を動かしてきました。強い者が弱い者の上に立って人々を支配してきたのです。日本の戦国時代を例にとってみると、多くの大名たちがこぞって「我、天下を統一せん」と豪語しては、戦いを繰り広げてきたわけです。そして、そのためにはときとして肉親同士がいどみ合い、争い合うこともあったというのです。では、彼らはなぜそこまでして相手を押しのけ、相手に勝とうとまでしたのでしょうか。思うに、「人の上に立つ」というところには非常な名誉があり、逆に「人の奴隷になる」というところにはこの上もない屈辱があるという価値観があったからではないでしょうか。

 なお、こういった「主導権争い」、「競争心」といったようなことは何も戦国時代のことだけに限ったことではありません。現代の私たちにとってもそれはしかりであり、子どもたちにとってもまたそれはしかりではないでしょうか。たとえば、公園にある1台のブランコを巡って、誰が先にのるかという主導権争いをしている子どもたちの光景を誰もが目にしたことがあると思うのです。要するに、人間誰しもが、子どものうちから「人に勝つ」、「一番になる」、「一等賞の山を築く」…、そういったことに価値を置く考え方に染まっているのだと思うのです。もちろん、だからと言って私は人間の向上心を否定し、また軽視しているわけではありません。私たちにとって、「切磋琢磨」しながらがんばることは大事なことだと思っています。けれども、一方において人間には自己中心的なところがあり、かつ自分の力で無理やりに人を支配しようとする傾向性がどうしてもあって、そのために私たちの人間関係はぎすぎすしてしまっているのではないかと思うのです。

 さあ、そこで今回の聖書のお話は、イエスさまが弟子たちの足を洗われたという、有名な「洗足」のところになります。さっそくですが、人が集団になると必ずといってもいいくらいに起こってくる暗黙の問いかけがあります。それは、「自分たちの中で、いちばん偉いのは誰か」といったような問いかけです。実は、イエスさまの弟子たちの中にも、そのような問いかけがありました。マルコ9:33~35をみてみましょう。

9:33 一行はカペナウムに着いた。イエスは家に入ってから、弟子たちにお尋ねになった。「来る途中、何を論じ合っていたのですか。」

9:34 彼らは黙っていた。来る途中、だれが一番偉いか論じ合っていたからである。

9:35 イエスは腰を下ろすと、十二人を呼んで言われた。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい。」

すなわち、十字架におかかりになる少し前のこと、イエスさまと弟子たちはカペナウムというところにいました。そして、そのときイエスさまが弟子たちにお尋ねになったのが33節にあるように、「来る途中、何を論じ合っていたのですか」ということでした。すると、弟子たちは黙ってしまいました。それというのも、「自分たちの中でいちばん偉いのは誰か」といったようなことを論じ合っていたからであり、イエスさまにお答えするにはとても恥ずかしい内容のことだったかったからです。しかし、イエスさまには弟子たちの考えていることなど先刻ご承知でした。そして、すべてをご存じの上で、彼らにこう仰せになられたのです。「だれでも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者になりなさい」と…。しかも、イエスさまはただ語るだけの先生ではありませんでした。彼らにそのよき模範を示してくださったのです。それが今回取り上げる、有名な「洗足」として知られている聖書の記事なのです。

 なお、イエスさまの時代、人々の履物といえば、今で言うサンダルのようなものでした。その上、道という道が今のように舗装されていたわけではなく、石ころだらけの土の道でした。ですから、歩けば当然のこと、ほこりや砂で足は汚れてしまったわけです。そのため、家へ入る際には必ず足を洗っていたのですが、その役を担っていたのは、たいていの場合、召し使いでした。ところが、イエスさまご自身がその仕事を始められたものですから、ペテロは驚いて「先生、そんなことなさらないでください。」と叫びました。すると、このときのイエスさまの返事は意外なものでした。「わたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと関係ないことになります」と仰せになられたからです。実は、イエスさまはよごれている足をきれいに洗うことを通して、これからご自分が、罪で汚れたすべての人の身代わりとなって十字架にかかり、罪をきよめてくださることをここでお示しになられたのですが、弟子たちにはまだそのことが理解できずにいたのです。

ところで、イエスさまがしもべの姿となって、このようなことをなさったのには重大な意味が込められていました。みんなの足を洗い終えられたイエスさまが、上着をつけ、もとの席にもどられると、静かな調子でこう仰せになられたからです。12節から15節。

13:12 イエスは彼らの足を洗うと、上着を着て再び席に着き、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたのか分かりますか。

13:13 あなたがたはわたしを『先生』とか『主』とか呼んでいます。そう言うのは正しいことです。そのとおりなのですから。

13:14 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。

13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。

要するに、イエスさまにとってのこのときの洗足は、まさに十字架を目前にしての弟子たちへの告別説教であり、「どうかへりくだって他者に仕える者となってほしい」ということを伝える汗のメッセージ…。さらには、裏切り者のユダにとっては、「それでもわたしはあなたを愛している」ということを伝える涙のメッセージにもなっていたではないかと思うのです。

 マザー・テレサという方をご存じのことと思いますが、彼女の生き方はイエス・キリストを模範とするところのものでした。彼女は孤独の中に死に行く人々のために汗を流し、また涙を流せる、言わば二流の生き方に徹した人だったのです。同じく、神谷美恵子という人がいましたが、彼女もまた差別されて苦しむハンセン病患者のために汗を流し、涙を流し、その生涯をささげた人でした。沢田美樹という人もそうです。彼女は、戦後の混乱期に生まれた不幸な混血児のために財をなげうって孤児院をつくりました。そうです。彼女もまた、この二流の生き方をした人のひとりだったのです。

 いずれにせよ、世の多くの人々は、この世で言う「一流」をめざすかもしれません。しかし、神さまが求めておられるのは、いつの時代であっても、イエスさまのような生き方と言いますか、イエスさまは汗と涙と尊いご自身の血さえも流されたお方でありましたが、せめて私たちは汗と涙を流せる「二流」をめざして、ますます神と人とに仕えていくクリスチャンにされていきたいと思うのです。

 

【恵みの分かち合い】

1.マザー・テレサ、神谷美恵子、沢田美喜について、何か知っていますか。

2.この世の「一流」志向、神が求めておられる「二流」の生き方について、分かち合いましょう。

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