聖書のお話 2026.01.18
【聖書箇所】エステル記1:1~12
【説 教 題】クセルクセス
【中心聖句】私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために
死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは
主のものです。(ローマ14:8)
【説 教 者】黒田 明
【新 聖 歌】372聖なる者と
本書はその主人公エステルという女性の名にちなんで「エステル記」と呼ばれています。ちなみに、聖書中、女性の名が書名として用いられているのは、「ルツ記」と本書だけです。なお、今回「エステル記」を学ぶにあたって、まずはその緒論的なところを扱います。すなわち、「本書の歴史的信憑性」ということと「著者と成立過程」ということ、そして「本書の歴史的背景」ということを取り上げてみたいのです。そして、その上で今回の説教題ともなっています「クセルクセス」について、みていきたいと思うのです。
そこで、まず緒論の第1「本書の歴史的信憑性」についてですが、大きく分けて3つの立場があります。第1はエステル記の歴史性を全く否定したフィクション説という立場。第2は様々な想像によって脚色された歴史小説であるとする立場。そして第3に、これは私たちの立場でもあるわけですが、エステル記はすべて史的事実であるとする立場です。ちなみに、本書に記されているペルシアの王や古代ペルシアの状況というものが、考古学的にみても、また歴史学的にみても、その正しさが証明されつつあるという話を聞いたり、また「本書は、特定の目的と視点を持った書であることは明らかであるが、その歴史的信憑性を疑う理由は何もない」と書かれてある本を読んだりすると、大変うれしくなり、また励まされます。
続いて、緒論の第2「著者と成立過程」についてですが…。残念ながら、本書自体の中には著者を暗示するような箇所はどこにも見当たりません。したがって、結論として、著者は不明であると言わざるを得ませんが…。9章29節や32節などにモルデカイやエステルがプリムの祭りに関係する文書を公布したことが記されており、エステル記がこれらの文書をもとに書かれたことは大いに考えられることでもあるので、著者はペルシア在住のユダヤ人とみて間違いないのではないでしょうか。
なお、緒論の最後は「本書の歴史的背景」についてですが…。皆さんは、バビロン捕囚とか、ペルシアの王キュロスとか、その後のダレイオス王をご存じでしょうか。実は、本書の内容は、そのダレイオス王に次いで紀元前486~465年までペルシアを統治していたクセルクセスの時代に起こった出来事を扱っています。すなわち、彼の治世の第3年に、彼はペルシャ帝国の指導者たちを招いて宴会を催し、王妃ワシュティをも招きました。ところが、王妃はその命令を拒んでしまったがために、彼女は失脚させられてしまうのです。そこで王が新たな王妃を募集したところ、ペルシアに住むユダヤ人モルデカイの養女エステルが選ばれたというわけです。ところが、その一方において、ユダヤ人を敵とみなすペルシアの大臣ハマンが登場してきます。しかも恐ろしいことに彼は「ユダヤ人虐殺計画」を着々と進めていくのです。ところが、野球で言えばまさに9回裏、本書の主人公エステルの捨て身の生き方がユダヤ人に大逆転劇をもたらしたというのが、本書の主なストーリーになります。
ところで、本書「エステル記」には神の名が1度もでてきません。聖書中、神の名がでてこないのは、「雅歌」と本書だけです。けれども、本書を読むと、地上で起こる一切のことを導いておられる神の指を感じないわけにはいきません。私たちは、エステル記こそ、神の摂理の御手を教える書であることを学ぶ必要があると思うのです。
さて、いよいよ本論に入りますが、今回はクセルクセスに注目し、彼がどんな人物であったのかを探っていきたいのです。たとえば、4節をご覧ください。「王は彼の王国の栄光の富と大いなる栄誉を幾日も示して、百八十日に及んだ」とあります。また、6節と7節をご覧いただくと、「白綿布や青色の布が、白や紫色の細ひもで大理石の柱の銀の輪に結び付けられ、金と銀でできた長椅子が、緑色石、白大理石、真珠貝や黒大理石のモザイクの床の上に置かれていた。金の杯で酒がふるまわれたが、その杯は一つ一つ種類が違っていた。王室のぶどう酒は、王にふさわしく豊かにあった」とあります。はたして、これは何を物語っているのかというと、それこそ「彼は、目に見えるものを誇っていた」ということであって、事実、彼はその数の多さやその華やかさを誇っていたのです。
では、私たちはどうでしょうか。ともすると、私たちも数が多いか少ないか、あるいは華やかに見えるか見えないか…、そういった目に見えるところのもので自分をはかってみたり、あるいはそのようなものさしで自分の信仰や自分の教会をはかってしまうことがありはしないでしょうか。そして、数の多さや華やかさで一喜一憂してしまう、ある種の「とらわれ」が自分の内にありはしないか…、そのようなことを主の御前にさらけだし、主の御思いを巡らすときにしていただきたいと思うのです。
たとえば、週報をご覧になる際、出席者数をみて一喜一憂してしまうということよりも、むしろ本日の欠席者が誰であるのかを知って、その人のために祈るとか、病気であるならばその人を見舞うとか、そのような方向に自分の心をもっていくよう心掛けたいと思うのです。
続いて、クセルクセスから学ぶことのできる2つめですが…。「彼は、女性の人格を軽視し、また物質化していた」ということです。11節。要するに、彼は人を人としてでなく、ものとしてみていました。人を自分の思い通りに動かそうとしていました。人を自分の力で支配し、自分の都合の良いようにあやつろうとしていたのです。しかも12節をみると、どうでしょう。自分の思い通りにならないと、彼は腹を立ててしまう有様なのです。
なお、正直なところ、私はこのクセルクセスを非難することができません。なぜなら、内なるクセルクセスが私の中に存在しているからです。しかし、私にそのような大切な気づきを与えてくださるのは神であり、またそのようなけがれた心をきよめてくださるのも神ご自身であられることを覚えるとき、私はそのような神に感謝したいと思うのす。
皆さんは、19世紀のユダヤ系宗教哲学者マルチン・ブーバーをご存じでしょうか。彼が残した有名なことばの1つに、「我と汝」というものがあります。すなわち、相手の人格を無視したり、軽視したりすると、そこには人間の非人間化が起こってくる。そしてそれは「我と汝」の関係でなく、「我とそれ」の関係になってしまうということを教えているものです。そこで今回、私たちが「我と汝」の関係をいつまでも保っていくための心掛けとして、相手が子どもだからとか、女性だからとか、寝たきりの高齢者だからとか、このようなことで相手の人格が軽視されるべきではないということを、神にあって深く覚えさせていただくものでありたいと思うのです。
【恵みの分かち合い】
1.クセルクセスの問題点を2つ挙げなさい。
2.あなたにも同じような問題点がありますか。